ショパン:4つのスケルツォ
スケルツォが生み出された時期は、ショパンの作曲活動期のほぼ全般にわたっています ― 作品20はショパンが世界的に名を知られはじめた頃に書かれ、作品54はショパンのキャリアと人生が晩年に差し掛かっていた時期に書かれました。この4つの作品は、スケルツォというひとつのジャンルのうちにショパンがいかにその作曲技法を発展させていったかを非常に素晴らしく示しています。
‘スケルツォ’がもともとイタリア語で‘冗談’を意味するのに、ショパンのスケルツォにはユーモアがない、と音楽学者たちはしばしば言及します。学者たちの結論としては、ショパンは、自分の内なる想いを表現するための基盤として、交響曲やソナタに用いられていたスケルツォの形式と拍子を用いたというものです。この考えには確かに正しい部分もあるでしょう、しかしショパンのスケルツォにはそれ以上のものがあります。ショパンはあえて交響曲の様式からこのスケルツォの形式を‘抜き出す’必要はなかったはずです ― ピアノのためのスケルツォはシューベルト、メンデルスゾーンや他の作曲家によって既に書かれていました。実のところ、ショパンのスケルツォにユーモアが無いわけではありません。しかし、それはしばしば暗く嘲笑的で、死を連想させるような種のものです。ショパンは、あらゆる種のユーモアを好んでいたのです。
ショパンは、スケルツォをそれまではなし得なかった高みまで引き上げ、彼の手によってスケルツォは、ヴィルトゥオジティに縁取られた、高度な表現の可能性を実現する手段となったのです。
4つのすべてのスケルツォがPresto(急速に)で書かれ、同じ4分の3拍子です。この4分の3拍子は、演奏する際は1小節1拍で感じます。
第1番は荒々しく、フレーズは断続的で、不穏で発作的な感情を示唆します。ショパンがパリへ向かう途中、故郷ポーランドがロシアに侵攻されたことを知った時に作ったとされています。この一報を聞いてショパンは激しく落ち込み、家族と友人すべてが殺されるという狂信的な想像をしてしまったほど取り乱したことが、当時の日記に記されています。不穏な雰囲気は、極めてもの悲しい甘美さを湛えたトリオで振り払われます。ここでは古いポーランドのクリスマス・キャロル“Sleep, Little Jesus”が用いられ、ショパンが他からの引用を取り入れている稀な例です。重なりあう鐘の音に彩られ、まるで思い出の中から現れ出たように神秘的です。しかし冒頭で表れた不安を煽るような和音がこの美しい夢を遮り、我々は曲の主題に引き戻され、強暴なコーダで締めくくられます。
第2番は穏やかな問いかけで始まり、すぐさまフォルティッシモの和音が応じます。ショパンは、この部分を“遺体が置かれている・・死の家だ”と言っています。この問いと応答はいくどか繰り返され、やがて極めて美しいテーマの中に解決します。ショパンは弟子たちに、当時の人気歌手Rubini and Pastaを聴きに行って、いかに歌うようにこのフレーズを演奏するかを学んでくるように指示していたそうです。中間部のトリオは物思いに沈んだようなマズルカで、進むにつれて情熱が増してゆき、一連の不安定なカデンツで爆発します。そして、冒頭の問いと応答がふたたび現れますがここでは問いかけが少し変化しています。そして遂に、問いに対する答えが華やかなコーダの中に示され、一連の応酬は幕を閉じます。作曲された当時から、第2番は4曲のスケルツォのなかで最も人気があるようです。
第3番は、更に色彩豊かで絵画的なイメージに富んだ作品です。奇妙で大胆な和声のイントロダクションによって、悪魔の支配が高らかに告げられます。主題は暗澹と力強く、時には邪悪でさえあります。この曲でも、美しいコラールのトリオによって不穏な空気が振り払われます。賛美歌風のメロディが何度も繰り返され、まるでミサの祈?のように催眠術的な効果を生み出しています。このメロディは、ちらちらきらめき流れ出るような無数の小さい鐘の音に伴われています。コラールは魅惑的に次第に力を失い、音楽はほとんど完全に休止します。そして、ぶつかり合うオクターヴから上昇するメロディが沸き起こり、再び音楽は目覚めベルリオーズ風の壮麗で荒れ狂うコーダへと突き進んでゆきます。
第4番は、ほかの3曲とはどこか趣を異にし、「真夏の夜の夢」のようなシェークスピア的世界に我々を誘い込みます ― 妖精や花、植物や昆虫たちのきわめて微小な魅惑的な世界。主題は異なる調と音域を飛び回り、軽やかで幸せに満ちる一方で、いくぶんの深い根本的な物悲しさも感じさせます。中間のトリオ部分は美しくメランコリックな舟歌(バルカローレ)で、個人的な秘密か悲しい思い出でも隠されているかのようで、ショパンの音楽の中でも最も美しい語りを聞かせます。やがて一時的に力を失った妖精のダンスは曲の終わりで快活に再び力を取り戻し、目も眩むような輝かしい充実した締めくくりを迎えます。
チャイコフスキー:『四季』より "10月 秋の歌" "6月 舟歌"
偉大な作曲家とは、多才であること ― 音楽の形式、構造、リズム、色彩、音色など様々な要素の感覚において多様な異なる特徴を持ち合わせる、非凡な才能の持ち主といえるでしょう。歴史上の多くの作曲家のなかでも並外れて美しいメロディを紡ぎだす才能を与えられた一握りがいます。彼らにとって美しいメロディを作ることはたやすく、まるで彼らの内側からメロディがものすごいスピードで湧き出てくるかのようです。モーツァルト、ロッシーニ、ベッリーニ、シューベルト、ショパンなどがすぐに頭に浮かんできます。
ロシアの音楽家のなかで、そのようにメロディの才に恵まれた作曲家はチャイコフスキーでした。「白鳥の湖」、「くるみ割り人形」、「ロミオとジュリエット」、交響曲第6番などを思い起こすだけでも十分でしょう。
チャイコフスキーはオペラ、交響曲でよく知られる一方、ピアノ曲も多く書いていますが、演奏される機会が多いとはいえません。本日は、チャイコフスキー「四季」から2曲を選びました。「四季」は、1876年雑誌「ヌーヴェリストnouvelliste」からの委嘱で書かれ、12の月に1曲ずつ、全12曲からなります。毎月1曲ずつ、この雑誌で紹介されました。チャイコフスキーは、それぞれの月に対して詩の引用を添えており、それらは雑誌の編集者が選んださまざまなロシアの詩人によるものでした。
10月「秋の歌」には以下の引用が添えられています。
秋よ、われらが粗末な庭は一面
落葉におおわれている
黄色く色づいた木の葉は風に舞っている (トルストイ)
チャイコフスキーの音楽は詩を完璧に描写し、色を添えています。物悲しさに満ちた雰囲気とメロディは無二の美しさを誇り、のびやかにロマンスが薫り、流行りのシャンソンを思わせます。
6月「舟歌」
岸辺にいこう
波が我々の足にくちづけ
神秘的な悲哀をもって
星が我々の上に輝くだろう (プレシシェーエフ)
この曲は、ほとんど神秘的ともいえる、謎めいた独特の性格(引用詩のなかの‘神秘的な悲哀’)を有すると思います。左手の伴奏が打ち寄せる波のようにゆるやかにさざめく上で、目のさめるような可憐なメロディが上行し、やがてゆるやかに下行します。ある意味、永遠性について、また永遠のために書かれた抽象的で観念的な音楽といえるでしょう。(他の例としてベートーヴェンの最後のソナタのように)人生のある本質的な瞬間が完璧にとらえられ、その移ろう儚さの感じは、この曲をこの上なく美しく、また独特のものにしています。
ムソルグスキー:禿げ山の一夜
私がクロアチア(旧ユーゴスラヴィア)で幼少時代を過ごしていた頃、6月23日(聖ヨハネ祭)の夜は何かが起こる不思議な夜という古い言い伝えを聞かされていました。ある薬草を真夜中になる前に採取して煎じると魔法の薬が出来上がる、というような言い伝えもありました。夏至の次の夜であるこの日は、はるか昔の新石器時代から今日まで、世界の多くの国と地域で祝われています。
子供時代、ニコライ・ゴーゴリの「ウクライナの物語」という本に不思議なほど引き付けられ、また怖がっていました。夜寝る前にその本を読むことは不可能でした。特に、その中のひとつ「聖ヨハネ祭前夜」(「ディカニカ近郷夜話」より)などは、思い出すだけで体中に冷たい震えが走るほど恐ろしいものでした。40年ほど経った今こうして、この物語に触発されたこの曲を弾いているなど、その頃は思いもしませんでした。ムソルグスキーの死後、彼のオーケストラ版「聖ヨハネ祭の夜の禿山」はまさにこの物語にインスピレーションを受けて書いたという記述が発見されています。
ムソルスグキーによるプログラムは以下の通りです。
百姓の若者が小屋から少し離れた小山のふもとで昼寝をしている。若者の眠りのなかでは・・・
1. 地下から沸き起こる人間でない吠え声、人間でない言葉を発している。
2. 暗黒の地下王国があらわれ、眠っている若者をあざ笑う。
3. チェルノボグ(悪魔、死神、黒い神)が現れる前触れ。
4. 暗黒の精霊たちは若者から離れる。チェルノボグの出現。
5. チェルノボグへの崇拝、黒ミサ。
6. 魔女たちの宴。
7. 魔女の宴が最高潮に達した瞬間、キリスト教教会の鐘が鳴り響き、チェルノボグは突然姿を消す。
8. 悪魔の苦しみ。
9. 教会から聞こえる聖職者たちの声。
10. 悪魔は消え去り、若者は目覚める。
魔物や幽霊、精霊など超常世界の出来事を描いた曲で、幻想的な生き物が騒然と混在する恐怖感をまざまざと感じることができます。4つのヴァージョンが存在し、うち3つはムソルグスキー自身の編曲、4つ目は一番新しく、また最も有名なリムスキー=コルサコフによるものです。このリムスキー=コルサコフによる版は素晴らしい出来で、チェルノフによるピアノ編曲版が知られています。しかし私は、ムソルグスキーの原曲には手つかずの美しさが秘められていると感じ、ここではソロピアノ用の私のヴァージョンで改めてご紹介したいと思います。
バラキレフ:イスラメイ-東洋風幻想曲
バラキレフは、前曲「聖ヨハネ祭の夜の禿山」の制作に深くかかわっていました。最初は大いに支持し、やがて否定的な態度を取るようになります。バラキレフの「イスラメイ(東洋風幻想曲)」は、ピアノ曲の歴史の中でも最も有名な1曲となりました。
1869年、バラキレフはコーカサス地方(黒海とカスピ海に囲まれた山脈と地域)へ旅行をした後に、この曲を書きました。彼自身が後に手紙で友人に伝えた、曲が生まれたきっかけは次のようです。
『そこには豊かな自然が作り出す雄大な美しさがあり、また自然と調和しながらそこに住む人々の姿も美しいものであった。これらは一体となって私に深い印象を残した。そこで歌われていた音楽に私は興味を持ち、知り合ったコーカサスの王子はたびたび私のもとを訪れ、ヴァイオリンのような楽器で民族音楽を奏でてくれた。そのなかの1曲「イスラメイ」という舞曲を大変私は気に入ったので、ピアノ用にアレンジを始めたのだ。二つ目の主題は、モスクワで出会ったクリミアから来ていたアルメニア人の俳優から聞いたもの、彼によればクリミア・タタール人の間でよく知られている恋の歌だということだ』
「イスラメイ」は単に超絶技巧のショーピースというだけではなく、コーカサス地方やロシア全体の民族音楽のさまざまな特徴を忠実に描き出し、「レズギンカ」(ハチャトゥリアンのバレエ「ガイーヌ」中に聞かれる)や、曲の最後はロシアのダンス「トレパーク」にも似ています。主題が絡み合い編まれていくやり方は見事で、トランスクリプションの空前の達人、リストの芸術的な手法にのっとってなされています。(リストもこの曲を絶賛していました)打楽器に伴われたさまざまなエキゾチックな弦楽器の奏でる様子がピアノの音色で描き出され、新しい斬新な色彩を生み出しています。ピアニストの間ではイスラメイはピアノ作品中もっとも演奏困難な曲としていわれていますが(私は必ずしもそうとは思いませんが)、聴き手にとっては不動の名曲として親しまれています。